イリザロフ法という名前は日本ではまだ馴染みのない方も少なくないと思います。言葉の響きから想像されるようにイリザロフとはロシア人の医師の名前です。イリザロフ法はロシアでは半世紀以上の歴史ある治療法ですが、1990年頃にようやく日本に紹介された新しいコンセプトの治療法です。
イリザロフ法は私たちの組織に備わった再生力を最大限に引き出す治療法で、従来の骨折治療の概念を根本から変える理想的な骨折治療法です。また、イリザロフ法は骨の変形を矯正したり延長したりすることもできるため、新鮮骨折の治療だけでなく、骨折の合併症に対する治療にも優れています。また、小児の低身長や骨変形の治療にも威力を発揮します。
1921年
Gavriil Abramobich Ilizarov(ガブリル イリザロフ)は、Belovezh(ベロべジ)の貧しい農家で産まれます。 こどもの頃、医者のおかげで奇跡的に病気が治ったことがきっかけで、医師を目指します。
1944年
若きIlizarovはカザフスタンに近いKurgan(クルガン)の病院への勤務を命じられます。 整形外科学、骨折に関心を示すようになり、これまでの骨折治療に疑問を持つようになっていきました。
1951年
Ilizarovは前年に自分が発明した器械を用いた骨折の治療法を発表します。この方法により骨折の治療期間が大幅に短縮されました。Ilizarovは徐々にこの方法の応用範囲を広げていきました。ある時、ある骨折患者に骨折部に圧迫をかけるためIlizarovはリングを連結しているロッドのナットを少しずつ回してリング間の距離を徐々に縮めるように指示をしました。ところが、その患者は間違ってナットを逆に回し、リング間を延長してしまいます。驚いたIlizarov はレントゲンを撮ってみて、骨折部にできたギャップに新たに骨が形成されていることを発見し更に驚きました。その後、さまざまな実験により、これが「単なる偶然の産物ではなく、条件が整えば骨や軟部組織は牽引に対し組織新生が起こる」という原理(=イリザロフの原理)を発見したと伝えられています。
1952年
Kurgan(クルガン)の新聞に12.3cmの骨延長が行われたことが掲載されます。しかし、Ilizarovの業績はあまりに当時の常識とかけ離れていたためか、なかなか受け入れられることはありませんでした。
1965年
Ilizarovの治療成績に疑いを持つモスクワの医師たちはIlizarovのペテンを暴くためにVladimir Golyakhovsky(ウラジミール・ゴリヤノフスキー)をKurganに派遣します。ところがIlizarovの患者の詳細を見ているうちにGolyakhovskyはすっかりIlizarov法に魅了され、ミイラ取りがミイラになってしまいました。ところが、モスクワに戻ってIlizarov法の有用性を力説したGolyakhovskyでしたが、医師たちの猛反発にあい窓際に追いやられてしまいます。
1967年
夏、1964年の東京オリンピック走り高跳び金メダリスト(2m28cmという大記録)であったValery Brumel(ヴァレリー・ブルンメル)が、不幸なことに交通事故に巻き込まれ、右足をバイクに轢かれてしまいます。彼のケガは両下腿の開放骨折で、損傷部分は汚染されていました。偶然にもGolyakhovskyの古い友人であった彼のガールフレンドは、Brumelが現在の治療に満足できず途方に暮れていることをGolyakhovskyに伝えたところ、Golyakhovskyは是非ともIlizarovの診察を受けるためにイリザロフクリニックのあるKurganに行くことを勧めました。Ilizarovの治療を受けたBrumelは1年後、再びハイジャンプで2mをクリアできるようになりました。 スポーツジャーナリストはBrumelの奇跡的回復について書きたて、同時に彼の救いの神であるIlizarovについても報道したため、Ilizarovの名声はソ連邦全土に轟くことになりました。イリザロフ先生は『魔術師』と呼ばれ、イリザロフクリニックは『奇跡を起こす病院』と呼ばれたのです。多くの有名人が治療を受けようとKurganになだれ込みました。
しかし、Ilizarov法が西側に伝わるのは更に10年以上の年月が必要でした。そのきっかけになったのが、イタリアの冒険家Carlo Mauri(カルロ・マウリ)です。彼は、事故で左下腿の開放骨折を受傷し、イタリアで数度の手術を受けたが治癒せず、感染性偽関節となっていました。冒険家としての活動ができなくなったMauriはジャーナリストとなり、あるとき北欧で取材中、船中で知り合ったロシア人からIlizarovの噂を耳にしました。
1980年
11月、MauriはIlizarovの診察を受けるためにシベリアへと旅立ちます。6カ月間の治療の後、Mauriの下腿は完全に治癒し、MauriとIlizarovは親友となりました。Mauriの完全に治った下腿を見て驚いたのは主治医であったCatagni(カターニ)らイタリアの医師達です。
1981年
6月、さっそく彼らはMauriの助けを得てBellagio(ベラッジオ)の学会にIlizarovを招待します。Ilizarovの講演に大変感動したCattaneo(カタネオ)、Catagniらイタリアの医師達はIlizarovから寄贈されたセットを用いてIlizarov法の臨床使用を開始しました。
1982年
4月、Catagniらイタリアの医師達はMauriの協力でシベリアのIlizarovのもとを訪れることができました。 こうしてIlizarov法は1980年代に急速に西側諸国にも広まることになったのです。 Ilizarovは多大な功績に対し、Lenin prize(レーニン賞)を授与されます。
1990年
Ilizarovは第3回日本創外固定研究会に招待され来日しました。
1992年
7月23日、二度目の来日を前に心疾患で急逝され、70年の波瀾万丈の人生の幕を閉じました。
上記で詳しく述べているように、イリザロフ先生は限られた道具をうまく組み合わせて画期的な骨折治療法を開発しました。 また人間の組織は徐々に伸ばしていくと組織が増える(延長される)ことを発見しました。トカゲのしっぽが切れてもまた伸びてくるように、人間の組織も伸ばすことができるのです。この原理は短い骨を伸ばしたり、変形した四肢の形を矯正したりするのに用いられています。また、外傷や感染などで欠損した部分を補填するのにも用いられます。人工のものを用いたり、体の他の部分を犠牲にして欠損を補填する方法とは決定的に異なり、自分自身に備わっている自己再生力を利用しているわけですから、まさに従来の常識を打ち破る画期的方法といえるでしょう。
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